J. Jpn. Bronchoesophagol. Soc.Vol. 73 No. 2, 2022特別講演2本稿は第72回日本気管食道科学会の抄録/会議録である。1)パラリンピック日本代表,2)阪急旅行社54日気食会報,73(2),2022pp.54─55中西麻耶1), 2)略 歴・大分県由布市出身・ 陸上アスリート(パラリンピック4大会連続出場)・ 走り幅跳び5 m 70 cm(世界ランキング2位,日本記録,アジア記録保持者)高校時代にソフトテニスでインターハイ出場2006年に勤務先の事故で右膝から下を切断2007年より陸上を始める。100 m, 200 mで当時の日本記録を樹立2016年には走り幅跳びでアジア記録,日本記録を3度更新ロサンゼルスオリンピック(1984年)三段跳び金メダリストのアル・ジョイナーの元で研鑽を重ねる成 績2008年 北京パラリンピック出場 100 m 6位入賞,200 m 4位入賞2012年 ロンドンパラリンピック出場2016年 リオデジャネイロパラリンピック出場 走り幅跳び4位入賞2017年 世界パラ陸上ロンドン2017 走り幅跳び 銅メダル獲得2018年 アジアパラ大会2018 走り幅跳び 金メダル獲得2019年 世界パラ陸上ロンドン2019 走り幅跳び 金メダル獲得2021年 東京パラリンピック出場 走り幅跳び6位入賞(講演内容を事務局で要約) 「今日は,前半で東京パラリンピックまでの道のりと,その後,東京パラリンピックがどのように開催されていて,実際,選手たちはどのように過ごしていたのかっていう部分をお話できたらいいなと思います。短い時間ですけど皆さん宜しくお願いします。」冒頭,この言葉で講演が始まりました。 小学校4年時に父親の仕事の関係(椎茸の細菌研究と椎茸の栽培)で,大阪から大分県由布市庄内町に移住,中学校の時ソフトテニスに出会い,明豊高校に進み,卒業後に2008年の大分国体を目指すことに理解ある企業に就職。2006年,仕事中に事故にあい,大分中村病院に搬送された。大分中村病院は,日本パラスポーツに尽力された中村裕先生の病院で,その息子さんの中村太郎先生が主治医の先生となったこと。ここまでの経緯と事故にあった際に,強い意志を持って右下肢切断の決断に至る気持ちを話されました。 その際に,「私は2年後にテニスプレーヤーとして復帰するために,今どんな選択をするべきなのか,それを一緒に考えてくれる人も必要でしたし,自分の中でも,やっぱりどんな状況にあったとしても,このままテニスを守るんだという覚悟がものすごく必要だった瞬間だったのが,実際に中村病院の整形外科の先生達も,パラスポーツに詳しいドクターばかりだったので,私が今,テニスをしたいとかスポーツをまだする望みだけは守りたい,という主張に対して,すごい前向きに考えてくれる先生方ばっかりでした。」「今も競技を続けて14年目になりますが,どんな苦しい時にも前を向けた,っていうのは,やっぱりあの一言であったり,あの時の言葉かけ,っていうのは大きかったなあ,というのを今コロナ禍のパラリンピック─大分から世界へ─
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