でも感謝していますし,本当に印象に残ってる。」と語られました。 しかし,義足になったことへの周囲の見方が,日本人とアメリカ人とで,大きく違っていたこと。2009年からアメリカに単身で渡っての苦労と充実感について,「アメリカでも頑張れてるっていうのがすごく私は誇らしかったですし,本当にない状態から助けてくれる方が1人2人3人4人と増えていくのはすごく嬉しかったですよ。充実していたんです。」そしてパラスポーツに対しては,「自分は障がいを持った人が社会に出て行くための道を開けたらいいな,と思ってやっていたことが,実は大変迷惑なことなんだと感じさせられることが多かった。それがもうすごく苦しい時期がありました。けど本当にチャンスだったと思ったのは,2013年に東京パラリンピック開催が決定した時,風向きがガラリと変わったのですね。応援していただける企業も増えましたし,沢山の方にパラリンピックの存在を知ってもらわなきゃいけないっていう世間の流れもあった」と当時の社会の雰囲気と考え方の変遷を,種々の■藤の中で語られました。「今でもやっぱり健常者と障がい者がわかり合うためにどうしたらいいのですかね,って聞かれることが沢山あるのですが,55お互いの立場で考えると変化が必要な部分もあれば変化しないことが必要な部分もあって,ものすごく難しいなとは思うんです。私の競技人生の中でも,テーマはあって,気持ち良く陸上するっていうことより,ずっと社会との関係性をうまくバランスを取っていくことがすごい難しいテーマなのかな,という風に思いながら,今でも競技生活を続けています。」 それから,聖火リレーのこと,東京パラリンピックが中止にならずに開催できたことへの海外の友人からの評価,「日本人ってよくルールも守るし,町も綺麗だし,本当におもてなしの精神を持っている。日本だから延期にはなったけど中止にはならずに,こうやって開催を守ってくれてるんじゃないのか,もうありがとうって言いたいよ。こんな大変な状況の中なのに,やっぱりこの大会を守ってくれたんだから,胸張ってくれよ,麻耶!って言ってくれる選手ばっかりで」と熱く語られました。また,選手村の様子や無観客のことなども話されました。 最後に,「次も頑張りたいな,って思えるような大会になりました。以上で,時間になりましたので話を終わらせていただきます。ありがとうございます。」で締めくくられました。日気食会報,73(2),2022
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